各国の状況

第一次世界大戦参戦各国の状況は?

ロシア帝国
詳細は露仏同盟を参照

ロシア政府は1909年に、オーストリアのボスニア併合を承諾する代わりにセルビア独立を支持することを誓約していたが、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とロシア皇帝ニコライ2世(戦争準備を主張する軍部に圧力を掛けられていた)の間の重大な電報交渉(「ウィリーとニッキー」書簡として知られる)の決裂を受けて、7月30日にその予備軍を動員した。

ロシアはオーストリア=ハンガリー帝国のセルビアへの宣戦布告に対して、部分動員では手遅れになる場合を想定し、7月31日に総動員令を布告した。ドイツはロシアに動員解除を要求したが、ロシア政府は動員を解除した場合には短期間で再び戦時体制に戻すことは難しいと考えたため、要求に応じなかった。

ドイツ帝国
独墺同盟、三国同盟を参照

独墺同盟に基づき相談を受けたオーストリア=ハンガリー帝国に対し、ドイツ政府はセルビアへの強硬論を説いた。ロシア帝国が総動員令を発すると、露仏の二正面作戦を強いられるドイツは、ロシアの動員が完了するまでに西部戦線において決定的な勝利を収めるもくろみから、参謀総長小モルトケがシュリーフェン・プランに基づき8月1日総動員を発令し、同時にベルギーに対し無害通行権の要求を開始するなど、3大国を相手にした戦争の準備を開始した。翌日にはロシアに対し宣戦布告が行われ、さらに翌3日には、フランスに対して宣戦布告が行われた。

フランス
英仏協商、露仏同盟を参照

フランスは、8月1日に総動員令を発令し、8月4日にはドイツがシュリーフェン・プランに基づいてフランスに対して宣戦したため参戦した。同日、開戦と同時にヴィヴィアン首相は、議会に戦争遂行のための「神聖同盟」の結成を呼びかけ、全会一致で可決され、議会は全権委任の挙国一致体制を承認した。

イギリス
英仏協商、英露協商、日英同盟を参照

イギリスは伝統的にブリテン島対岸の低地諸国を中立化させる政策を実行してきた。1839年のロンドン条約において、イギリスはベルギー独立を保証していた。そのためドイツがベルギーに侵入したのを確認すると、イギリス政府は外交交渉を諦め、8月4日にドイツに宣戦布告した。

また、1867年に自治領となっていたカナダも、宗主国イギリスに倣い参戦した。同様にオーストラリアやニュージーランドも参戦することとなる。

戦艦ドレッドノート建造を機に発生したドイツとの建艦競争と植民地を巡る対立から、ベルギーの中立に関わらずイギリスの参戦は不可避であったとの意見も存在するが、これは誤りである。アスキス首相の書簡により、もしドイツ軍がベルギーの南部だけに侵攻したならば参戦はしなかったが、全面侵攻により具体的な閣議の討論を伴い参戦を決意したことが確認されている。アスキスのこの書簡集(と言うより不倫相手に当てたラブレター集)は出版もされている。

アメリカ
詳細は孤立主義を参照

モンロー主義を掲げるアメリカは交戦国との同盟関係は無いために、大戦に参加する理由も、直接国益に関わる程の影響もなかった。さらに開戦時にアメリカは中米諸国においてメキシコ革命に介入するなど軍事活動を行っていたため、当初は中立を宣言していた。政府のみならず、国民の間にも孤立主義を奉じる空気が大きかった。大戦中には両陣営の仲介役として大戦終結のための外交も行なっていた。

しかしルシタニア号事件やドイツの無差別潜水艦作戦再開、ツィンメルマン電報事件を受け、世論ではドイツ非難の声を高まりウィルソン大統領は連合国側に立ち参戦を決定した。また、フランスやイギリスが敗北した場合に両国への多額の貸付金が回収できなくなることを恐れたとの見方もある。

大日本帝国
詳細は日英同盟を参照

日英同盟によりイギリスと同盟関係にあった日本は、イギリス政府から要請されて連合国側として参戦した。当時の総理大臣の大隈重信は、イギリスからの派兵要請を受けると御前会議にもかけず、軍統帥部との折衝も行わないまま、緊急会議において要請から36時間後には参戦を決定してしまった。大隈の前例無視と軍部軽視は後に政府と軍部の関係悪化を招くことになる。

北欧諸国
中立主義、武装中立を参照

北欧諸国は、大戦中一貫して中立を貫いた。1914年12月18日スウェーデン国王グスタフ5世は、デンマーク、ノルウェーの両国王を招いて三国国王会議を開き北欧諸国の中立維持を発表した。これらの国はどちらの陣営に対しても強い利害関係が存在しなかった。スウェーデンにおいては親ドイツの雰囲気を持っていたが、これも伝統的政策に則って中立を宣言した。ただしロシア革命後のフィンランド内戦において、スウェーデン政府はフィンランドへの義勇軍派遣を黙認している。

その他
1882年にドイツ・オーストリア・イタリアから成る三国同盟を成立させていたイタリアは、オーストリアとの領土問題からイギリス・フランスと接近し、1915年に協商国側に立ち参戦した。数度にわたる露土戦争においてロシアと争ったオスマン帝国は同盟国に加わり、独・墺・土を中心とする同盟国(中央同盟国)と、英・仏・露に日・伊・米などを加えた連合国(協商国)の両陣営が形成された。