第一次世界大戦の経過

対戦の経過について。

開戦
この戦争における最初の戦闘はアフリカおよび太平洋でおこなわれた。8月8日に英仏の連合軍がドイツ保護領のトーゴランド(現在のトーゴ)に侵入した。同月10日には南西アフリカよりドイツ軍部隊が英領南アフリカ(現在の南アフリカ共和国)を攻撃した。8月30日にはニュージーランドが太平洋のドイツ領サモア(現在のサモア)を占領した。また9月11日にオーストラリアの部隊がノイポンメルン島(ドイツ領ニューギニアの一部、現在のニューブリテン島)に上陸するなど、数か月の内に協商国側は太平洋のドイツ軍部隊を降伏させた。これに対しアフリカでは戦争終結まで散発的な戦いが継続された。

一方ヨーロッパにおいてはドイツとオーストリア=ハンガリーの間で、緒戦の戦略に関する齟齬が発生していた。ドイツは開戦前にオーストリア=ハンガリーのセルビアへの侵入を支援することを保証していたが、ロシアとフランスの参戦が明らかになると、シュリーフェン・プランに基づきドイツが西部戦線でフランスと対峙する間にオーストリア=ハンガリーがその軍隊の大部分をロシアに対して集中させる計画を立てた。対セルビア戦を準備していたオーストリア=ハンガリー軍は既に動員が完了していた軍を北方のロシア軍に対峙するために分割せざるを得なくなった。南から進軍するセルビア軍は1914年8月12日にツェルの戦いでオーストリアの陸軍に遭遇した。

セルビア軍は、オーストリアに対する防御陣地を構築し、8月16日にオーストリア=ハンガリー第21師団と、セルビア軍混成師団の間で戦闘が発生した。夜戦を含んだ激しい戦闘は一進一退を繰り返し、ステパ・ステパノヴィチがセルビアのラインを回復するまで続いた。3日後にオーストリア軍は、16,000人のセルビア側死傷者に対して、21,000人の死傷者を受けドナウ川を渡って退却した。これは戦争における連合軍の初めての勝利であった。オーストリアはセルビアを除去するという主目標を達成できず、ロシア戦線に加え二正面におよぶ戦闘を強いられることになる。

事前に策定されていたドイツの防衛計画(シュリーフェン・プラン)は、まずフランスを倒し、そして次に動員の遅いロシア軍に対処するという戦略であった。対フランス戦においては、両国の国境を通過して東フランスに直接侵入するのではなく、ベルギー・オランダを通過して北フランスへ侵入することを決定していた。ドイツ政府は8月2日、ベルギー政府にたいして無条件通過権を要求した。ベルギーはこれを拒絶し、ドイツ軍はルクセンブルクを占領した後ベルギーに侵攻した。ドイツ軍は8月4日朝8時、リエージュから48キロ東のゲメリッヒでベルギー国境を突破した。ベルギー政府はドイツに宣戦布告し、ベルギーの都市リエージュを中心として軍を配置したが質量ともにまさるドイツ軍に圧倒された。イギリスは、陸軍大臣にホレイショ・キッチナーを任命し、フランスへ英国遠征軍 (BEF) を派遣した。フランドルにおいてドイツ軍と英仏両軍の最初の戦闘が行われ、このフロンティアの戦い(1914年8月14〜24日)でドイツ軍は大勝利を収めた。

しかしベルギー、フランスおよびイギリス軍の抵抗による遅延と、予想外に迅速であったロシアの動員により事前の計画との間には差が生じつつあった。ロシア軍はまず動員の完了した二軍をもって東プロイセンを攻撃した。タンネンベルクの戦い(8月17日〜9月2日)として名高い一連の戦闘においてパウル・フォン・ヒンデンブルク指揮下のドイツ軍はロシア軍を壊滅させた。しかし西部戦線においてはマルヌ会戦においてフランスと英国によりパリへの侵攻を最終的に阻止され、ドイツ軍は一時的に撤退した。その後ドイツ軍は占領したフランス北東部に防衛陣地を構築し持久戦へと移行した。これらの戦闘においてフランス、イギリス両軍は230,000人もの戦死者を数えた。

序盤戦・ロマンティシズムから塹壕戦へ
1914年時点では戦争の姿は多くの人々によってロマンチックに描写され、国民はその発表を大熱狂で歓迎した。この戦争は、少数の急激な戦闘からなる短いもの(「敵に教育してやる」こと)となるだろう、そして敵国の首都へ入城して終わり、凱旋して普段の生活に戻れる(クリスマスまでには帰れる)だろうという見解が多数であった。しかしながら、少なからぬ人々が今度の戦争に大きい悲観と憂慮を感じていた。キッチナーのように、両側の司令官がその戦争が長いものになるだろうことを予見していた。ドイツのベートマン・ホルヴェーク首相のような他の政治的指導者は、戦争が生み出す社会的影響を憂慮していた。国際債券と金融市場は、金融への戦争の影響についての不安を反映して、7月下旬と8月初旬に深刻な危機に陥った。

参戦国の国民は、戦争の興奮によって想像力を掻きたてられた。国家宣伝と愛国心の熱情に押されて、多くの人が冒険を求めて戦列に参加した。しかし彼らのほとんどがその前線において実際に遭遇する事に対する準備ができていなかった。

塹壕戦の始まり
マルヌにおける最初の成功の後、協商国とドイツの軍隊は、他国に撤退を強いようと一連の裏をかく作戦を始めた。いわゆる海へのレースである。英国とフランスはまもなく彼ら自身がロレーヌからベルギーのフラマン海岸まで続く強固なドイツ軍の陣地に直面しているのを知った。 ドイツがすでに占拠していたその領土を防御しようとする一方で、イギリス軍とフランス軍は攻勢をとろうと努めた。 この結果分かったことは、そのドイツの塹壕は英仏軍のそれよりずっと良く建設されていたということであった。英仏軍の塹壕は、英仏軍がドイツの防御を突破するまでの、単なる一時的なものとしか考えられていなかったのだ。

いずれの側も続く4年間決定的な打撃を与えることができなかった。しかし、ずっと長引いたヴェルダンでのドイツの作戦(1916年)、そして1916年夏のソンムにおける協商国の失敗により、フランス陸軍は崩壊の瀬戸際まで追い詰められた。 さらなる無益な正面攻撃でフランス歩兵部隊が大損害を受けたために、1917年春のニヴェル攻勢の後に抗命事件が起き、前線の連続性が危うくなった。 1915年から1917年を通じて英仏軍は、ドイツ軍よりずっと多くの死傷者を出した。両側が死亡と負傷で何百万という兵士を失った。

およそ800,000人のイギリス兵が常時西側戦線にいた。攻撃が進行中でない場合一ヶ月周期の4交代で運用するというシステムで、1,000個の大隊がベルギーからアーネまでの戦線のそれぞれ担当の防衛区域を占拠した。その戦線は6,000マイル以上の塹壕を持っていた。各大隊はおよそ1週間その防衛区域を担当し、その後支援ラインに移動、それから1週間予備ラインに入り、その後戦線外へ移動する体制だった。戦線外の時間はしばしばPoperingeあるいはアミアン地域で過ごした。