第一次世界大戦に関するブログ!!
第一次世界大戦とは?
1914年6月28日にオーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の継承者、皇太子フランツ・フェルディナントが、ボスニアの首都、サラエボでセルビア人民族主義者ガブリロ・プリンチプにより暗殺された(サラエボ事件)。セルビア政府の関与を疑ったオーストリア・ハンガリーは最後通牒送付後7月28日にセルビアに対し宣戦を布告した。当時のヨーロッパ列強の複雑な同盟・対立関係によって瞬く間に戦火が拡大し、世界大戦に発展した。各国の政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしたが、各国の参謀本部によって事前に準備されていた戦争計画に基づく総動員により開戦に至ったとされる。
各国はドイツ・オーストリア・トルコ・ブルガリアの同盟国(中央同盟国とも称する)と、三国協商を形成していたイギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国(協商国)の2つの陣営に分かれ、日本、イタリア、アメリカも後に連合国側に立ち参戦した。多くの人々は戦争は速やかに(「クリスマスまでには」)終わると楽観していた。しかし大量の機関銃の組織的運用に代表される兵器の攻撃力の激増により、弾幕を避けるために塹壕を掘りながら陣地を進める戦術が採用され、さらに敵塹壕を後方からの重砲によって攻撃する塹壕戦が主流となったため戦線は膠着する。戦争の長期化は交戦国に国民経済を総動員する国家総力戦を強いることとなり、それまでの常識をはるかに超える物的・人的被害をもたらした。
国力に劣る同盟国は、長期戦により経済が停滞した。1918年に入るとトルコ、オーストリアなどが降伏し、1918年11月にドイツのキール軍港での水兵の反乱をきっかけに、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は退位に追い込まれ大戦は終結した。足かけ5年にわたった戦争で900万人以上の兵士が戦死し、戦争終結時には史上2番目に流血の多い戦争として記録された(この時点での史上1位は太平天国の乱。この記録は第二次世界大戦によって塗り替えられることになる)。またこの戦争によって当時流行していたスペイン風邪が船舶を伝い伝染して世界的に猛威をふるい、戦没者を遥かに上回る数の病没者を出している。
軍事的な側面について
19世紀後半以降、歩兵は射程距離の長いライフル銃を装備するようになった。これにより弾幕射撃の威力と精度が増し、ナポレオン戦争の時代まで勝敗を決する地位を占めてきた重装騎兵の突撃が無力化された。一方で、第一次世界大戦において初めて投入された飛行機、戦車などの攻撃的兵器は、性能や数量がいまだ不十分であり、戦場において決定的な役割を果たすまでには至らなかった。第一次世界大戦における戦場の主役は、攻撃においても防御においても歩兵であった。
さらに、第一次世界大戦で重要な役割を果たしたのが鉄道であった。攻撃側の歩兵部隊が徒歩でしか前進できないのに対し、濃密な鉄道網を持っていたドイツやフランスは、防御側に立ったときには圧倒的に速い速度で予備兵力を集結させることができた。タンネンベルクの戦いでは、東プロイセンに進攻してきたロシア軍に対し、ドイツ軍は鉄道を効果的に活用することで各個撃破に成功している。
このような防御側優位の状況の中、西部戦線では塹壕戦が生起した。スイス国境からイギリス海峡まで延びた塹壕線に沿って数百万の若者が動員され、ライフル銃や機関銃による弾幕射撃の前に生身の体をさらすことになった。こうして、それまでに行われた国家間の戦争に比べ、死傷者の数が飛躍的に増加した。また、塹壕戦を制する目的で、第一次世界大戦では初めて毒ガス兵器が使われた。
第一次世界大戦開戦時にイギリス海軍大臣であったウィンストン・チャーチルは、「第一次世界大戦以降、戦場から騎士道精神が失われ、戦場は単なる大量殺戮の場と化した」と評した。
オーストリア・ハンガリー帝国
1867年、アウスグライヒによりオーストリア=ハンガリー帝国が誕生した。ハプスブルク家はオーストリア皇帝およびハンガリー王となり、ハンガリーは軍事・外交・財政を除く広範な自治権を得た。この妥協は帝国の維持のためにフランツ・ヨーゼフ1世および他のドイツ人貴族によって同意された。しかしこの改革によっても帝国内の民族問題は解決されなかった。当時の二重帝国内には少なくとも9言語を話す16の民族グループおよび5つの主な宗教が存在していた。
政府を主導するオーストリア人とハンガリー人は、台頭するスラブ人の民族主義に深い疑いと憂慮を持って見ており、1912年から1913年にかけて行われたバルカン戦争の結果、隣国セルビアの領土が約2倍になったことを警戒していた。一方でセルビアの民族主義者は、オーストリア=ハンガリー帝国の南部は南スラブ連合国家に吸収されるべきだと考えていた。この民族主義的政策は、自らスラブ人の守護者を任ずるロシアにおいて一定の支持を与えていた。オーストリア政府や軍は、帝国南部におけるセルビア人民族主義運動が帝国内の他の民族グループへと伝播し、さらにロシアが介入する事を危惧していた。
6月28日に発生したサラエボ事件に対し、オーストリアのレオポルド・フォン・ベルヒトルト外相は懲罰的な対セルビア戦を目論み、7月23日セルビア政府に10箇条の最後通牒を送付して48時間以内の無条件受け入れを要求した。セルビア政府はオーストリア官憲を事件の容疑者の司法手続きに参加させることを除き、最後通牒の要求すべてに同意したが、オーストリアはセルビアの条件付き承諾に対し納得せず、7月25日国交断絶に踏み切った。躊躇するイシュトヴァーン・ティサ首相と皇帝の反対を押し切る形で、7月28日にセルビアに対し宣戦布告が行われた。